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山梨県  


たけだじんじゃ

武田神社 躑躅ヶ崎館跡 (山梨県甲府市古府中町)
天守:なし  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1520年 武田信虎が館を建てて本拠とし、城下町を整備する。
1541年 武田晴信(信玄)が、父・信虎を追放して武田家当主となる。
1572年 信玄、足利義昭の要請に応え、上洛軍を率いて出発(西上作戦)。
1573年 信玄、遠征先で病没。勝頼が跡を継ぐ。
1581年 勝頼、新府城に移る。
1582年 甲州征伐。甲斐武田家が滅亡。織田家臣・河尻秀隆が入る。
    本能寺の変後、武田家遺臣によって河尻秀隆が殺害される。
    天正壬午の乱後、徳川家康による甲斐支配の拠点となる。
1590年以降 甲府城の築城により廃城。
(メモ)
 館、城下町は室町幕府の将軍邸「花の御所」の影響を強く受けたといわれる。
 城ではなく、館であったため、背後の山に詰め城・要害山城が築かれた。
 現在、神社の南側に入口があるが、当時は橋もかかっておらず堀で、大手口は本曲輪の東側にあった。大手口の空堀は圧巻。
 神社の北側、西側に館時代の遺構が比較的残っている。大手口のある東側には豊臣時代に築かれた石塁などが復元されている。
拝殿(本曲輪跡) 西曲輪堀 西曲輪石垣 
大手門口 大手外側・豊臣時代の石塁(復元) 甲府駅前の武田信玄像
武田神社宝物殿
<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

伝 高坂昌信所用 鉄板物紺糸引縅五枚胴具足
 武田信玄のもとで活躍した武田四名臣のひとり・高坂昌信(春日虎綱)所用と伝わる具足。派手さのない実戦的な具足。

甲州金
 武田信玄が鋳造したといわれる日本で初めての金貨。信玄の時代、甲斐国内には豊富な埋蔵量を誇る金山がいくつかあり、公共事業、軍資金、外交と様々なところで使用された。




こうふじょう


天守台

銅門(復元)
 甲府城 (山梨県甲府市丸の内)
 天守:なし  日本100名城
 戦国期を中心とした主な歴史
1582年 甲州征伐。甲斐武田家が滅び、織田家臣・河尻秀隆の支配地になる。
    本能寺の変。秀隆、武田遺臣によって殺害される。
    天正壬午の乱徳川家康の支配地になる。
1583年 徳川家臣・平岩親吉によって着工が始まる。
1590年 家康、関東へ転封。羽柴秀勝が入城。
1591年 秀勝、美濃へ転封。加藤光泰が入城。
1593年 光泰、朝鮮出兵中に病没。浅野長政が入城。
1599年 長政、家督を幸長に譲る。
1600年 幸長、紀伊和歌山に転封。
1603年 徳川義直(家康九男)が入城。
1607年 義直、尾張清州に転封。以後、城番制となる。
1616年 徳川忠長(秀忠三男)が城主となる。

(メモ)

 平岩親吉によって築城が始まるが、加藤光泰、浅野長政に引き継がれて完成した。
 見事な石垣が残っており、復元された建造物も含め見応え十分。
 甲府に行ったら、甲府独特の「もつ煮」を食べるべし。
稲荷櫓(復元) 山手門(復元)




えりんじ

乾徳山恵林寺 (山梨県甲州市塩山)
 甲斐武田家の菩提寺。
 創建は、鎌倉時代末期だが、応仁の乱で一度荒廃し、戦国時代に入ってから、武田信玄により再興され武田家の菩提寺となった。
 1564年、信玄に招かれ住職となった快川紹喜は、武田軍の軍旗「風林火山」の文字を書いた人物といわれ、信玄が亡くなると、その遺言に従って、信玄の死を3年間伏したのち、武田勝頼を喪主に、自身は導師として葬儀を執り行った。
 1582年、織田信長らによる甲州征伐で武田家が滅ぶと、快川和尚は、織田家に逆らった者たちをかくまい、その引き渡しに応じなかったため、三門に閉じ込められて焼き討ちにあい亡くなった。その際、残した言葉が「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。
(メモ)
快川紹喜の弟子・虎哉宗乙は、伊達政宗の師となっている。
重要文化財に指定されている四脚門は、織田信長によって焼かれ、徳川家康によって再建された。
四脚門(赤門) (重要文化財) 三門 武田信玄公墓所
信玄公宝物殿

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

武田信玄所用 太刀 来国長 (重要文化財)
 武田信玄所用と伝わる佩刀。江戸中期に甲府城主となった柳沢吉保によって奉納されたが、手に入れた経緯は不明。

武田信玄所用 短刀 銘 備州長船倫光 (重要文化財)
 武田信玄所用と伝わる短刀。「太刀 来国長」と同様、柳沢吉保によって奉納された。

武田軍旗 「孫子の旗」 (県指定文化財)
 「風林火山」で有名な武田軍の軍旗。文字は、信玄の葬儀を執り行った快川紹喜の手によるものだといわれる。

原大隅所用 大身の槍
 武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたという第四次・川中島の戦いで、原大隅が、この槍で謙信の馬を突いて追い返し、信玄の危機を救ったといわれる。



しんぷじょう

新府城 (山梨県韮崎市中田町)
天守:なし  続日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1580年 穴山梅雪武田勝頼に築城を献策(諸説あり)。
1581年 正月 真田昌幸の普請により築城が始まる(諸説あり)。
    9月 城が完成する。
    年末 勝頼、躑躅ヶ崎館から移住。
1582年 甲州征伐。勝頼、小山田信茂の献策により城を捨て岩殿城へ向かう。
    3月 勝頼、信茂の裏切りにより天目山にて自害(武田家滅亡)。
    天正壬午の乱徳川家康が本陣を置く。
1590年 甲府城の築城にともない廃城。
(メモ)
 築城の費用負担が、武田一門であった木曽義昌の離反を招き織田、徳川による甲州征伐が始まった。
 丸馬出、三日月堀など甲州流築城術の特徴がよくでている。
 遺構がよく残っており大手丸馬出、大手門跡、搦手の乾門跡、井戸跡、東出構、西出構は特によく整備されている。
 衰退しかけていたとはいえ、甲斐武田家の本拠として築城されただけあって、規模はなかなか。西側の天然防御である浸食崖はかなり高く覗くと怖い。
 隅々まで見ようとすると、かなりの時間がかかるので時間に余裕を。
三日月堀 大手丸馬出 大手門跡